そして大相撲には、「格闘技(スポーツ)」と「興行」にプラスして、もうひとつ「神事」という重要な要素もある。
神代(垂仁天皇7年)の記録(日本書紀)に残されている、出雲国の「勇士」野見宿禰と大和国の「力士」当麻蹶速の「埆力」が、大相撲の起源ともされているが、結果は宿禰が蹶速を「蹴殺した」というから、現在の大相撲のルールとは相当異なるものだったようだ。
そんな相撲が、奈良・平安時代になると、全国から力人を集めて天皇の見ている前で行われる節会相撲として発展。やがて鎌倉武士の格闘技として進化し、室町・安土桃山時代になると戦国大名が力士を抱えて育て、大名相撲として盛んになった。江戸時代になると神社や寺門の建立資金を集める名目で全国各地から集まった力自慢による勧進相撲が人気を集め、横綱制度も生み出され、大地を踏み固める四股によって邪気を払い、五穀豊穣を願う神事としての側面も定着した。
その結果、明治4年に「断髪令」が発布されたときには、武士・公家・神主・町人など、すべての日本人男子が丁髷を切り、「散切り頭」にするよう求められたが、神事を行う力士だけは特別な存在として、丁髷や大銀杏を結うことが許されたのだった。そして現在も大相撲の土俵の下には、土俵祭によって、勝ち栗、榧の実、昆布とするめ、洗米、塩が、御神酒に浸されて埋められているのだ。
君子が南面する(天皇が南を向いて見守る)土俵の上で、東(青房)と西(白房)から力士が土俵にあがり、両腕と手のひらを開いて武器は何も隠し持っていないことを示し、塵手水を切り(草を揉んだり、空中の塵を取って手を清めること)、東の青竜と西の白虎が相撃って相撲を取るのは、天地長久、五穀豊穣を願う神事でもあり、横綱は各地の神社で奉納土俵入りを行う義務があるのだ。
そんな神事という面もある大相撲では、単に勝敗を競ったり白星の数や優勝回数を較べたりすることに、あまり意味はない。それよりむしろ、観客の誰もが満足する力と技を見せること、そして日本の文化を守ることが第一の役割と言うことができるだろう。
……と、ここまで大相撲の解説をしてきたのは、改めて言うまでもなく、「日馬富士の暴行事件」が、世間を大きく騒がせたからだ。
その「事件」については、司直や日本相撲協会の手によって、きちんと解決されることを望む。が、それ以上に心配なのは、2千年の歴史を誇る日本文化としての大相撲のカタチが、崩れてきていることだ。
昨年の千秋楽で優勝インタヴューを受けた横綱白鵬は、最後に万歳三唱を行った。「暴行事件」の解決がまだだったときに何のための万歳か(白鵬の優勝を祝うためなら自分で率先して行うのはオカシイ)といった疑問はさておき、そのとき白鵬の行った万歳は、まるで汽車汽車シュッポシュッポという歌に合わせて両手を動かす仕種を、そのまま上にあげたようなカタチで、万歳になっていなかった。また多くの観客の行った万歳も、手のひらを前に向け、「降伏」や「お手上げ」の仕種で、これも万歳になっていなかった。
日本人の所作とは外見だけを示せば良いのではなく、すべては心のなかから表れている(と、私は故野村万之丞氏から聞かされた)。そのため万歳の手の動きも、心の内側から湧き出たものとして、手の甲を上にして両腕を持ち上げながら、頭の上で左右に開くというのが、正しい万歳のカタチのはずだ。
たかがカタチというなかれ。カタチが崩れてくるときは、本質も忘れられる。かつて横綱朝青龍が勝ったあとの土俵上で、さかんにガッツポーズを行ったことがあった。そのとき、ガッツポーズくらい現代ではイイじゃないかと言った人も少なくなかった。が、土俵上で拳を握るのは武器を隠している仕種で、相撲では認められない所作なのだ(仕切りで土俵に手を着くときだけ、手のひらに土の付かないよう拳を握るのが許されている)。
風呂あがりの力士がスポーツウェアのジャージを着るのもいただけない。やはり浴衣を着るべきだ。巡業の土俵の上に背広姿であがって挨拶した親方もいたが、巡業とは言え土俵にあがるときは、やはり紋付き袴を身につけるべきだろう。そういう大相撲周辺の文化も含めて大相撲のはずだ。
時代の流れとともに、確かに大相撲も変化する。屋根を支えるための四本柱がなくなって釣り天井になったのは、見やすさの点から素晴らしい変更だった。が、大相撲の基本は伝統文化を保守すること。そうして現代の日本人も、大相撲によって日本文化の素晴らしさを再認識する。そういうところに、大相撲の(格闘技というスポーツだけに留まらない)価値があるに違いない。
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