本州最北端に位置する青森県・下北半島を1度は訪れたいと思い、青森空港からレンタカーで3泊4日の半島巡りをしたことがあります。そのとき拾った意外な話、興味深い話題を、記憶を手繰りながら紹介してみます。
まず目指すは、ここを外せば下北に行ったことにはならないと思われる霊場・恐山でした。陸奥湾沿いの海岸道路をしばらく走っていると、横浜町という記憶に残る地名に出くわします。青森県にも横浜があるのです。ここの菜の花畑は日本一の広さといわれています。残念ながら、私が訪問した時は、盛りの2週間後で全面青畑でした。
横浜にはもう1つ名物話があります。ナマコのことです。現在主流の海産物、ホタテ貝は陸奥湾のいたるところで産出されるというのに、どういうわけかナマコだけは江戸の昔から横浜付近でしか取れないそうです。
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全面青くなった菜の花畑 |
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恐山といえば1つの山の呼称のように思われますが、それは誤解で、近隣にある8峯をまとめた呼び名でした。この山々に囲まれて宇曽利湖(うそりこ)があります。この湖には興味深い話があります。強度の酸性湖なので、ほとんどの魚が棲めないのですが、どういうわけかウグイの1種だけは泳いでいるといいます。
湖畔に円通寺というお寺があって、霊場の中心となっています。恐山は高野山、比叡山とともに日本三大霊場に数えられています。寺が開かれた当初は天台宗系の修験者の道場だったというのに、途中から曹洞宗の寺になったというのは意外な話でした。
地獄めぐりを体験するような恐山ですが、なんと言っても印象的なのが、卒塔婆のように立てられた色とりどりの風車(かざぐるま)でしょうか。写真や映像で1度は見られた方も多いと想像します。あの風車は、冥界にいってしまった乳幼児が、さぞ寂しかろうと、慰めるためのものだそうです。
恐山と並んで下北半島で外せないのが、やはりマグロの1本釣りで有名な大間でしょうか。
行ってみて、マグロ漁師の生きざまを描いた映画『魚影の群れ』を思い出しました。亡き緒形拳や夏目雅子が出ていたので、もう古い映画(1983)の部類に入るでしょうか。
さすがに大間まで来ると、その地理的環境からおもしろい社会現象を聞かされます。急病人が出たら、漁船で海の向こうの函館まで搬送したといいます。19kmほどの距離だそうです。ちょっとした買い物にも函館まで行くそうです。道路が整備される以前、町役場の役人が青森県庁に出張する際には、一旦、函館まで渡ってから青函連絡船に乗り換えて青森市まで行ったそうです。
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マグロ釣りのまち・大間 |
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恐山名物の風車 |
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本州最北端の大間 |
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大間を出発して、斧の形に似る下北半島のその刃の部分を走っていると、やがて仏ヶ浦の案内板を見つけます。下車してみれば、目的地まで法高400メートルほどの坂道を下ることを知ります。近くに置いてあった貸出用の杖の残像を頭に残しながら下って行くと、案の定これが非常に急勾配でした。帰りは何度も休憩しては登ったものです。
海岸に到着して、奇岩の景勝を堪能していると、かなり高齢と見受けられる観光者の一団に出会い、「エッ、この人達、あの坂道を登れるの」と余計な心配していると、何の事はない、最寄りの港から出ている観光船に乗って来ていたのでした。もちろん帰りも船だから、急峻な坂道には全く無縁というわけでした。
仏ヶ浦で思い出すのが、昭和40年(1965)制作、内田吐夢監督、三國連太郎主演の映画『飢餓海峡』です。台風襲来による青函連絡船の転覆騒動のどさくさに紛れて、3人の犯罪者が小舟を調達して函館から本土側へ逃走を図ります。たどり着いた所が、ここ仏ヶ浦だったのです。
よりにもよってこんな断崖絶壁の場所を選定したものだと思っていたのですが、青函連絡船の行き来していた時代、投身自殺者の漂着場所の多くが仏ヶ浦だったと聞いたので、へんに納得した次第です。しかし、映画の中で、仏ヶ浦に生きて上陸できたのは1人です。伴淳演ずる刑事の想像シーンに、断崖絶壁を主人公1人で舟体を引っ張り上げて燃やす場面がありましたが、あれは、いくらなんでも無理があるのではと違和感を持ったものです。
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仏ケ浦の奇岩 |
仏ケ浦景観 |
宿泊の地、三沢市にある小牧温泉に向かって、大きな湖の小川原湖に沿って走っていると、斗南藩記念観光村という道の駅に出くわしました。この出会いは、私にとって非常にラッキーでした。この旅の目的の1つに斗南藩という悲運の地の匂いを少しでも嗅ぎたい気持ちがあったからです。
斗南というのは、下北半島のむつ市から半島付け根にある野辺地町周辺を指しています。戊辰戦争に敗れた会津若松藩の人々が移住した土地で斗南藩と称していました。
この観光村の中の施設に「三沢市先人記念館」というのがあって、そこには、廣澤安任という旧会津藩士を偲ぶ展示室がありました。廣澤安任というのは、会津藩主・松平容保が京都守護職に任じられた際、ともに上京して外交官のような立場にいた人です。会津が廃藩になったとき、やはり斗南に移住し、この地で牧畜業を始め、明治牧畜の先駆者だった人です。
明治初期の斗南地方は極寒と荒蕪の地で、もちろん稲作などできるわけがなく、この地へ来た会津の人々はたいへん悲惨な生活を強いられました。会津若松を出た当初、藩の再興ができると、北の未知の土地に希望の念を燃やしたのですが、実際来てみると、現実の厳しさを思い知らされ、おまけに廃藩置県で藩がなくなり、散々の生活だったのです。
斗南藩のことを思うとき、私は1人の人物を思い起こさざるを得ません。その人とは、柴五郎(1859-1945)です。司馬遼太郎作『坂の上の雲』の主人公の1人、秋山好古と陸軍士官学校で同期だった人です。柴五郎も会津藩士の出で、柴家の悲劇こそ、戊辰戦争で受けた会津藩の受難を象徴しているのではないでしょうか。官軍がいよいよ会津若松に迫ったとき、柴家にいた祖母、母、姉、妹全員が、戦の足手まといになってはいけないと、自刃して果てたのです。
柴五郎こそ、悲惨な斗南での生き証人であり、上級武士の家に生まれたにもかかわらず、藩の没落期に少年期に迎えたため乞食同然の生活を余儀なくされたのです。東京へ出る前の斗南時代、犬の屍肉を拾ってきて食したという話が、彼の遺書的記録である『ある明治人の記録(石光真人編著、中公新書)』に出ています。
柴は明治6年(1873)の陸軍幼年学校入学から生涯を通しての軍人で、英米仏語に中国語をこなす語学の天才でありました。陸軍内で一番の中国通だったといいます。彼の名を一躍有名にしたのは、北京公使館の駐在武官時代に起きた義和団の乱の時でした。明治33年(1900)、各国の公使館が義和団に取り囲まれた際、籠城でのみごとな統率者ぶりは各国から賞賛の声があがったといいます。読者の中には、昔、『北京の五十五日』という米映画があったことを覚えている方がおられるでしょうか。あの映画で、故伊丹十三演じる日本人武官が登場していましたが、あの日本人こそ柴五郎だったのです。
柴は、大正8年(1919)会津出身では初めての陸軍大将に就いています。61歳の時であり、いかにも遅いです。やはり会津を無理やり朝敵に仕立て上げた薩長閥のいじわる人事であった疑いはぬぐえません。昭和20年(1945)まで生きた長寿の人でした。
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