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スポーツ文化評論家 玉木 正之 (たまき まさゆき)
プロフィール
 1952年京都市生。東京大学教養学部中退。在籍中よりスポーツ、音楽、演劇、
映画に関する評論執筆活動を開始。小説も発表。『京都祇園遁走曲』はNHKでドラマ化。静岡文化芸術大学、石巻専修大学、日本福祉大学で客員教授、神奈川大学、立教大学大学院、筑波大学大学院で非常勤講師を務める。主著は『スポーツとは何か』『ベートーヴェンの交響曲』『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)『彼らの奇蹟-傑作スポーツ・アンソロジー』『9回裏2死満塁-素晴らしき日本野球』(新潮文庫)など。2018年9月に最新刊R・ホワイティング著『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)を翻訳出版。TBS『ひるおび!』テレビ朝日『ワイドスクランブル』BSフジ『プライム・ニュース』フジテレビ『グッディ!』NHK『ニュース深読み』など数多くのテレビ・ラジオの番組でコメンテイターも務めるほか、毎週月曜午後5-6時ネットTV『ニューズ・オプエド』のMCを務める。2020年2月末に最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)を出版。
公式ホームページは『Camerata de Tamaki(カメラータ・ディ・タマキ)

スポーツで最も評価される価値観は、昔は「力=パワー」、産業革命後は
「速さ=スピード」。そして現代は「制御=コントロール」の時代だ。

昔と今とでは、物事の価値観は変化している。それは皆さんも御存知で、たとえば江戸時代の武士は「切り捨て御免」の特権から、浮浪者を刀の試し切りに利用したことがあった―とも言われている。

それは今日では絶対に許されない行為だと誰にでもわかる。が、スポーツの世界には少々理解できないような過去の歴史もある。

たとえば野球のホームラン。今日では誰もが最高の一打と絶賛する記録も、ベーブ・ルースが次々とホームランを量産し始めた頃は、そうではなかった。

1919~20年ルースがシーズン最多の29~54本ものホームランを打ち始めたとき、『ニューヨーク・タイムス』の野球記者は、彼のホームランを非難した。「守備側の野手が手を伸ばしても触れないような打球を打つのは卑怯な行為。野球の醍醐味は野手の間を抜く狙い打ちプレス・ヒットの打球を放つことである」というのだ。

じっさい当時はホームランの記録も残されておらず、打者の表彰は打撃王(首位打者)だけだった。が、ファンは空高く吸い込まれていくルースの打球に魅了され、絶賛した。その結果、本塁打王や打点王の記録も過去に遡って調べ直され、ルースをきっかけに新しい「近代野球モダン・ベースボールの時代」が幕を開けたのだった。

これはルースという天才的打者が新たな時代を切り拓いたことで、「時代の変化=価値観の転換パラダイム・シフト」がわかりやすい。が、多くの人々が気付きにくい「時代の変化」もある。

たとえば「速い」という価値は、昔はさほど高く評価されるものではなかった。

たとえばA地点からB地点への移動を考えた場合、昔は、その間に狼も出れば山賊や敵の兵士もいて、「速く走る」だけでなく「強さ」を伴わなければならなかった。

だから紀元前の古代ギリシャのオリンポスの祭典(古代オリンピック)のスタジオン走と呼ばれる競走では、一緒に走っているランナーを押したり引っ張ったり、足を引っかけたりしても「反則」にはならず、「強さ」を伴ってゴールまで走り抜けた走者が優勝者として讃えられたのだった。

そして古代オリンピックのあらゆる競技のなかで最も賞賛されたのは「強さ」のナンバーワンであるレスリングの優勝者とされた(ボクシングとレスリングを合わせた格闘技のパンクラチオンやボクシングは出血が頻繁に起こり、オリンポスの神々を讃える祭事としては相応しくなく、出血を伴うことの少ないレスリングが格闘技として高く評価された)。

この「速さより強さ」という価値観が逆転したのは産業革命がきっかけだった。

蒸気機関車が出現した当初は、俺のほうが速く走れる、我が家の使用人のほうが足が速い、うちで飼ってる馬のほうが……と、黒煙を吐いて走る鉄の車に挑戦するモノが現れたという。が、最初のうちは機関車より速く走る馬もいたらしいが、そのうち機関車の能力が発達。速いうえに疲れを知らずに走り続ける機関車を見た誰もが、「速いことは素晴らしい」と確信するようになったのだった。

その後自動車が現れ、電気機関車が現れ、飛行機が空を飛び、ジェット機やロケットまで出現し、「速さ」は「強さ」という価値を圧倒的に凌駕。コンピュータも「京」から「富岳」へと進化。さらに富岳が100年かかる計算を20分程度でやってのける量子コンピュータの開発まで進んでいるという。

19世紀末に始まった近代オリンピックでも、最初のうちは古代オリンピックと同様レスリングの王者が最高のチャンピオンと讃えられたが、そのうち最も速く走る100m走の勝者や、最も長い距離を最も速く走るマラソンの勝者が、最高の競技者と讃えられるようになり、現在に至っている。

では、物事の価値観は変化する……というのが人類の歴史のなかで、「強さ→速さ」の次は、どんな価値観の時代が訪れるのか?

以前、F1レースで日本人として最初に活躍した中嶋悟さんに、公開ディスアッションの席で次のような質問をしたことがあった。

「時速300キロでマシンを走らせているときの感覚とは、どういうものですか?」

すると、こんな答えが返ってきた。

「雪が降ったあとのアイスバーンになった道路では、ハンドルを取られたりクルマを横滑りさせてしまうドライバーが多いですよね。でも、そんななかでタイヤをコロコロと上手く回転させてクルマをきちんと走らせるドライバーもいる。 F1に限らず自動車レースというのは、そういう競走なんですよ」

私は少々驚いて質問を続けた。

「では、自動車レースは速さを競ってるのでなく、安全運転を競ってるのですか?」

「はい。そうです。事故ったら、勝利も何もありませんからね」

なるほど。現代社会で情報やモノを速く届けるには、電子メールもあればドローンもある。F1でもラリーでも自動車の「速さ」そのものには実質的価値が失われた時代で、極限の速さで最高の安全運転を競い、そのデータを社会生活での自動車の安全性に活用しているのが自動車レースと言えるのだ。

では現代社会で、100mやマラソンを速く走ることには、どんな意味があるのだろう?

それは、走力を競う世界のトップアスリートたちの「走る姿」を見ればわかる。

速く走るアスリートの姿は美しい。肩も腰も、そして首から上の頭も左右に揺れることなく、一定を保つなかで、両足が規則正しいテンポで前後に動く。つまり速く走ることのできるトップアスリートは、「速い」から価値があるという以上に、自らの身体を見事に制御しきっていることに価値がある(その結果速くもある)と言えそうだ。

ならば、「強さ(力=パワー)」や「速さ(スピード)」に価値を見出してきた人類は、今や「美しく制御すること(コントロール)」に価値を見出す時代に突入したとも言えるだろう。

量子コンピュータの開発や、時速500㎞のリニア新幹線の工事も、ポイントはパワーやスピードではなくコントロールだと、現代のスポーツが教えてくれているようだ。

 


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(Up&Coming '22 秋の号掲載)

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