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遠賀川は、福岡県嘉麻市の馬見山に源を発し響灘に注ぐ、幹川流路延長61km、流域面積1,026km2の一級河川です。 遠賀川の最も注目すべき点は、その流路にあります。源流から筑豊平野を貫く流路は、河口までほぼ一直線に北流しています。この直線的な北流という特徴は全国的に見ても珍しく、同様の例は、富山県の黒部川、常願寺川、庄川など、ごく限られた河川にしかありません。
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直木賞作家・五木寛之氏の小説『青春の門 第一部 筑豊篇』の舞台としても知られる遠賀川流域は、日本の近代化を担った筑豊炭田の中心地でした。筑豊という地名は、筑前国と豊前国から取られ、中核都市となった田川、直方、飯塚は筑豊三都と呼ばれています。 かつて石炭を主力エネルギーとした時代、遠賀川流域は日本の産業発展の原動力でした。遠賀川の歴史的意義のひとつには、この産業を支えた「水運路」としての役割があります。 *** 「産業の川」としての遠賀川の歴史は、江戸時代初期にさかのぼります。当時、洪水が多く「暴れ川」であった遠賀川を安定させるため、初代福岡藩主の黒田長政によって治水事業が開始されました。長年をかけた流路の直線化や井堰、堤防の整備は、遠賀川流域を穀倉地帯や商業地として発展させただけでなく、後の石炭輸送の基盤を築くことにもつながります。 明治から大正、昭和にかけて「筑豊炭田」と呼ばれた流域一帯では、石炭産出が盛んに行われ、一時期には日本で産出する石炭のおよそ半分を供給したともいわれています。採掘された石炭は遠賀川の水運を利用して運び出され、官営八幡製鉄所をはじめとする工業用の燃料や、船舶・鉄道用の燃料として利用されました。 この輸送の主たる手段となったのは、「川ひらた」と呼ばれる底の浅い川舟です。最盛期には約十数万艘が行き交ったとも伝えられており、水運が輸送の大動脈であったことが伺えます。 しかし、膨張を続ける石炭需要に対し、水運の能力は次第に限界を迎えます。転換点となったのは、1891年(明治24年)の筑豊線開通でした。鉄道敷設が進むにつれ、大量輸送が可能な鉄道が舟運に取って代わるようになり、1939年(昭和14年)、川ひらたが遠賀川から姿を消したことで、水運交通の歴史には終止符が打たれました。
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遠賀川流域では、かつて水運や採炭に従事した人々の気風を指して「川筋気質」と呼ぶことがあります。この言葉には、舟運の船頭や坑内の労働者、港湾で積み下ろしに携わった人々の間に育まれた、独特な気風と精神性が集約されています。 この気質の中核には、荒々しさと義理人情という相反する要素の共存があるといわれています。炭坑や水運、港湾労働といった危険と隣り合わせの現場では、強い意志と胆力が求められましたが、それと同時に、命を預け合う環境は仲間を守る連帯意識も育てました。その結果として、「気性は激しくとも見捨てない」「弱い者には手を差し伸べる」という振る舞いが美徳として根づいたといいます。 今日では、この「川筋気質」は地域文化の一側面として紹介され、人のつながりを重んじる気風の源流として触れられることもあります。 *** こうした精神の体現者として、俳優の高倉健氏を思い浮かべる読者もいることでしょう。1931年(昭和6年)にこの遠賀川流域の中間市で生まれた高倉氏がスクリーンの中で演じ続けた寡黙で一本気な人物像には、この石炭と河川の歴史が培った「川筋気質」の面影を重ねて見ることができるかもしれません。
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| <参考文献> 国土交通省 九州地方整備局 遠賀川河川事務所ホームページ https://www.qsr.mlit.go.jp/onga/index.html 国土交通省 九州地方整備局「遠賀川水系河川整備計画【大臣管理区間】(変更)」令和4年3月 国土交通省 九州地方整備局「遠賀川流域治水プロジェクト2.0」令和5年9月 国土交通省「日本の川 遠賀川」 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0901_onga/0901_onga_00.html 福岡県観光WEB「クロスロードふくおか」 https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/11542 田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ https://adeac.jp/tagawa-lib/top/ |
| (Up&Coming '26 新年号掲載) | |||||||
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