Vol.13
新川・花見川物語

千葉県


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新川と花見川は成田街道の大和橋でその名を変え、上流を新川、下流を花見川と称する。新川に興味を持ったのは、松本清張著作の天保図絵(角川文庫)で、天保の改革を断行した水野忠邦が「印旛沼の工事は必ずやりたい。廻船の便利なためだけでなく、外夷が我国を窺っているような時代には軍用にもなる。米だけは安全に運べるからな」という主旨のことを言ったとの著述に遭遇したからである。


写真1  花見川の京成成田線鉄橋
 
写真2  花見側と新川の接点にある
     大和田揚水機場
写真3  新川
 

印旛沼の干拓は天保(西暦1830年から1844年)以前から計画されていたらしく、1662年幕府が新田開発を目的に、一旦、布佐~霞ヶ浦間に新水路を建設し、印旛沼と利根川の切り離しをするが、渇水期に水量が減るなどの理由で一年後に元の川筋に戻された。


1724年水害防止・新田開発のため、平戸村の染谷源右衛門が幕府から資金を借り受け、平戸村~検見川間の疎水路の開削工事に着手するが資金不足のため中止された。


1782年浅間山の大噴火により、利根川の川底が高くなり水害が頻発。田沼意次が幕府の事業として平戸~検見川間の疎水路開削工事に着手したが、天明6年の洪水で施設が壊されたことと、田沼の失脚により中止された。


水野忠邦が決定した普請丁場間数は以下の通りである。


沼津藩

神野・平戸村地先~横戸村地内

4434.5間

8062m

庄内藩

横戸村地内~柏井村地内

1196.0間

2174m

鳥取藩

柏井村地内~花島村地内

683.5間

1243m

貝淵藩

花島村地内~畑村地内

2104.5間

3826m

秋月藩

畑村地内~検見川村海辺

1301.0間

2365m

合計

9719.5間

17670m


なお、各藩の天保期の概要は次の通りである。


沼津藩
 

石高5万石、第3代藩主・水野忠義や第4代藩主・水野忠武らは、天保の改革を行なった水野忠邦から家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けた。

庄内藩
 

石高14万石、忠邦が企図した三方領地替えを撤回させたことで、印旛沼堀割工事の際に、懲罰的な御手伝普請を庄内藩が強いられる遠因となった。

鳥取藩

石高32万5千石、松平姓を称する上、外様大名ながら葵紋を下賜されて親藩に準ずる家格を与えられた。

貝淵藩

石高1万石、正式には請西藩。三河譜代。

秋月藩

福岡黒田藩の支藩、石高5万石。


忠邦が鳥取藩、貝淵藩、秋月藩の3藩に開削工事を命じた意図は不明である。

各藩の工事区間の掘削量は工事区間の最初の杭番と最後の杭番の平均断面積と区間長を乗じた値を掘削量とし、1年を360日とすれば一日当たりの掘削量は下表のようになる。1日8時間作業するとして、1日で掘削すべき量は1067m3から156m3となる。1人当たり3m3掘削すると仮定して必要人員を算出すると、1070人から156人となる。


平均断面積
(平方尺)

工事区間長
(尺)

掘削量
(立方尺)

掘削量
(m3

一日当たりの掘削量
(m3

沼津藩

1559

26607

41488960

1154488

3207

庄内藩

3744

7176

26869187

747672

2077

鳥取藩

3183

4101

13051884

363187

1009

貝淵藩

2142

13627

27052937

752786

2091

秋月藩

777

7806

6062335

168693

469


鳥取藩が請け負った工事区間は、長さは短いが極めて難工事だったようで、明治時期になっても完工しなかったようである。


明治以降内務省が事業を進めたが、昭和を迎えるまで完成しなかった。


昭和16年内務省が湖北~船橋間の昭和放水路を計画・着工したが太平洋戦争のため中止となった。昭和21年終戦後の食糧難と引揚者の失業対策として、印旛沼・手賀沼の開拓を国営事業として続けた。昭和35年、やっと印旛排水機場完成し、次いで、昭和41年大和田機場完成した。


平将門が夢見た干拓の言い伝えは別にしても、百十余年の長い期間を要して新川・花見川は完成を見たのである。


1985年に美浜大橋が竣工し、花見川の左岸のサイクリングロードが設置された。サイクリングやジョギングを楽しむ人でサイクリングロードは大賑わいである。


写真4  花新川と花見川が分かれている付近 写真5  美浜大橋の下を通るサイクリングロード

1977年にジョギング中に亡くなった当時の千葉市長荒木和成を悼む祠が浪花橋のたもとに設置されている。花見川区役所の近くは桜と藤の名所となっており、花の季節には沢山の家族連れが楽しそうに弁当を広げている景色を見ることができる。また。近くの瑞穂小学校には縄文時代の種から花を咲かせた大賀ハスが浮かぶ池がある。


現代を代表する美浜大橋から縄文時代の大賀ハスまで壮大なロマンが膨らむ川を新川・花見川の他に思い浮かべることができない。縄文の古代はさておき、平安時代や室町時代に川があったのか、川筋があったのか、知りたいことは尽きないが、調べる術を思いつかない。



<参考文献>
1)「印旛沼ものがたり」 水資源開発公団千葉用水総合管理所 2001年3月15日発行
2)「天保期の印旛沼掘削普請」 千葉市史編纂委員会 1998年3月31年発行



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(Up&Coming '22 秋の号掲載)

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