このコーナーでは、フォーラムエイトの社内報「はちみつ」から、国内各所の旅エッセイと映画に関するふたつのコラムを毎回紹介していきます。
…… タイトル「はちみつ」に込められたメッセージ ……
スイートで栄養満点なコンテンツが詰まった「はちみつ」8 meet you を文字ってこのタイトルにしました。 8(FORUM8)が社員や社外の方と触れ合い、グループ、チームの仕事を理解し、目標達成に向けて日々活動していくことが私達の理念です。
今回は、北海道の函館市、北斗市をご紹介します。
その土地の秘話や関連人物のエピソードに軸足を置いた話題を提供します。
函館市から
「函館の 青柳町こそ かなしけれ…」と石川啄木に謳われた函館の街は、26年間という短い生涯の中で、さらに5か月間ほどの滞在しかなかったのに、啄木にとっては、貧困の人生の中でも憩いの場所だったのでしょうか。「死ぬときは、函館で」と書き残したほどで、じっさい、彼と家族の墓が函館山南麓にあります。
石川啄木家の墓
箱館(旧名)は、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉兵衛が北方領土との交易拠点として活用してから商業都市として発展したといいます。いまではメジャーな観光地として知られていますので、観光案内はガイドブックに譲るとして、ここでは、幕末の1人の若者の話に絞ります。
函館の名所の1つに、赤レンガの倉庫群を利用したショッピングモールがありますね。この地の近く、ひっそりと建つ1つの石碑があります。横の案内板を見れば、「新島襄海外渡航の地碑」とあります。後に同志社英学校(同志社大学の前身)を設立する新島襄が、元治元年(1864)、アメリカへ密航する場所として選んだのが箱館でした。なお、襄という名は、アメリカでジョーと呼ばれていたから付けた帰国後の名前で、渡米前の名は七五三太(しめた)でした。
箱館では、ロシア正教の宣教に来日していたニコライ神父の所に転がり込みます。ニコライの日本語教師を務めながら、日本脱出を窺がっていました。なおニコライ神父というのは、今も東京・神田にある有名なニコライ堂のニコライですよ。しかし、新島から脱国計画を打ち明けられたニコライは反対したそうです。仕方なく、別の手蔓を使って新島は密航に成功しています。
北斗市ゆかりの、ある男爵
平成の大合併でできた北斗市というのが函館の西隣りにあります。函館湾はきれいな半円の姿を描いていますが、この半円の西3分の2は北斗市の市域です。函館から車で湾岸ドライブしていると、半円を過ぎてもう少し進むと右手側に「男爵資料館」 という看板を目にします。JR江差線および国道228号線脇の場所に、男爵川田龍吉が農事に従事したという農園の跡地が保存されています。ここに男爵資料館があり、彼の業績を記念して、多くの農機具が保存されています。特筆すべきは、龍吉の英国滞在時のロマンス相手の金髪の一房が封印されていたという金庫があることです。
男爵資料館(現在は閉館)
「川田龍吉とは、いったい何者だ」と読者の多くは思われるでしょうから、以下、この男爵父子の物語を紹介してみたいと思います。
西南戦争の年(1877)、川田龍吉は、造船学を学ぶため英国グラスゴー大学に留学していました。出身地である土佐藩の大先輩岩崎弥太郎が創設した三菱会社からの私費留学生でした。
川田龍吉には、英国滞在時にラブロマンスがあり、結婚の約束もして帰国の途につくのですが、それは実りませんでした。当時の恋文百通が昭和のずっと後年に発見されるという逸話まであります。森鴎外の『舞姫』に似た物語が龍吉にもあったようです。
男爵父子のものがたり
龍吉のことを話すには、彼のオヤジ殿のことから話さなければならないほど、その影響が強いのです。龍吉の前半生は父親の引いた路線を歩んだ形跡なのでした。龍吉の父親は、川田小一郎といいました。川田家は土佐藩の貧乏郷士であり、それが小一郎の立身出世欲に結びついています。彼は同郷の坂本竜馬より1歳年下の生れでしたが、倒幕運動に走ることもなく、むしろ藩内の能吏に活路を求める人間でした。
幕末のぎりぎりに土佐藩が討幕側に立ったため、維新劇場において小一郎がプラスイメージの端役を演ずる場面がありました。明治元年 (1868)、伊予の別子銅山を押さえる命令が新政府から土佐藩に出て、その役目が小一郎に回ってきました。別子銅山は後の住友財閥の屋台骨ともいうべき事業であり、これを取り上げられることは、住友家にとっては一大事でした。このとき、住友側からの懇願により、小一郎は新政府要人間を奔走して、住友の窮地を救ったのでした。川田小一郎という人は、後に岩崎弥太郎が三菱を創設するのを助けて、その大幹部となる人ですが、住友家でも恩人であったところがおもしろい経歴です。
小一郎には、こんな話も残っています。貧窮の身から大出世した人によく見られるケースで、出世につれ尊大になっていく人がいますが、彼もそのタイプでした。明治22年(1889)、彼は日銀総裁の就任を要請されます。この日銀第3代総裁時の話ですが、あるとき、大蔵大臣に用事ができました。このとき、自分から出向くのではなく、大蔵大臣を呼びつけたということです。おそらく、歴代の日銀総裁の中で、一番えらそうにしていた総裁だったと思います。
こういうオヤジ殿ですから、息子の龍吉は父親のくびきから離れられず、小一郎の命ずるままの前半の人生行路でした。三菱への入社も、英国への留学も小一郎の意向でした。そして、英国から帰国した龍吉が金髪の英国女性との結婚を希望するも、小一郎の断固反対で成就しませんでした。
男爵いも
龍吉の転機は明治29年(1896)、父小一郎が急死してからです。翌年、横浜ドックという会社の社長に就任します。その在任期間6年間と、財界の大御所渋沢栄一の要請により、明治39年(1906)、経営危機にあった函館ドックの立て直しに乗り込んでから、その役目を辞任するまでの5年間が造船屋としての龍吉の人生でした。
明治44年(1911)、函館ドックを辞めてからは当地で農場づくりに専念することになります。ときに55歳でした。元々、龍吉は子供のころから、土や農事に興味を持っていた人で、父親の干渉がなければ、造船学ではなく農学方面に進んでいたことでしょう。函館ドック時代からも農事に携わっていました。とくに北海道という地を、自分の若いころ過ごしたスコットランドの気候風土に似ていると感じた彼は、ジャガイモの育成を思い立ち、海外から種イモを多く輸入しては試作することになります。この中から、現在われわれが「男爵いも」と呼んでいるジャガイモが普及することになったのです。もちろん、川田龍吉男爵からの命名であることはいうまでもありません。
男爵の晩年
龍吉は長生きしました。安政3年(1856)の生れで、昭和26年(1951)、95歳で亡くなっています。尊大な父親のくびきから解放された龍吉の北海道での人生後半も、皮肉にも龍吉が長生きしたため、妻子が先に逝く晩年となり、精神に変調をきたすこともあったようです。心の安らぎを求めてか、じつに92歳にしてカトリックの洗礼を受けたといいます。彼が受洗したトラピスト修道院というのが男爵資料館の近くにあります。ここは、日本で最初の男子修道院だそうで、今でも内部は女人禁制だそうです。杉とポプラの美しい並木道に、明媚な牧草地はまことに目の保養になります。北海道らしい景色と問われれば、ここもその1つだと思います。
トラピスト修道院
トラピスト修道院前の坂道
(Up&Coming '20 盛夏号掲載)