


vol.31
スポーツ文化評論家 玉木 正之(たまき まさゆき)

プロフィール
1952年京都市生。東京大学教養学部中退。在籍中よりスポーツ、音楽、演劇、 映画に関する評論執筆活動を開始。小説も発表。『京都祇園遁走曲』はNHKでドラマ化。静岡文化芸術大学、石巻専修大学、日本福祉大学で客員教授、神奈川大学、立教大学大学院、筑波大学大学院で非常勤講師を務める。主著は『スポーツとは何か』『ベートーヴェンの交響曲』『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)『彼らの奇蹟-傑作スポーツ・アンソロジー』『9回裏2死満塁-素晴らしき日本野球』(新潮文庫)など。2018年9月に最新刊R・ホワイティング著『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)を翻訳出版。TBS『ひるおび!』テレビ朝日『ワイドスクランブル』BSフジ『プライム・ニュース』フジテレビ『グッディ!』NHK『ニュース深読み』など数多くのテレビ・ラジオの番組でコメンテイターも務めるほか、毎週月曜午後5-6時ネットTV『ニューズ・オプエド』のMCを務める。2020年2月末に最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)を出版。
公式ホームページは『Camerata de Tamaki(カメラータ・ディ・タマキ)』
2度目の東京オリンピックと万国博覧会のレガシー(遺産)はビッグイベントの開催が幕を閉じたこと?!
「昭和101年」からは五輪や万博とは無縁の「国のカタチ」を考える時代だ。
今年(2025年)は、「昭和100年」と「戦後80年」に当たる「区切りの年」。
「昭和100年」を振り返ってみれば、最初の20年は、日中戦争=満州事変、上海事変、支那事変から太平洋戦争=第二次世界大戦へと途切れなく続く「戦争の時代」だった。そして後半の80年は、国内だけは……との限定付きだが、「平和の時代」だったと言えるだろう。
その「戦争の時代」と「平和の時代」の対照的な二つの時代に、日本のスポーツ界もそれぞれ特徴的な発展を見せた。
まず最初に「熱狂的なスポーツ・ブーム」が生じたのは、昭和3(1928)年のアムステルダム・オリンピックで、三段跳びの織田幹雄と水泳(平泳ぎ)の鶴田義行が、日本人初の金メダルを獲得したことがキッカケとなった。
国民の多くが、夜間の「提灯行列」でその快挙を祝ったが、その「提灯行列」はその後の戦争で勝利の報告がもたらされると、常に行われるようになった。
そして翌昭和4年には昭和天皇が、剣道と柔道が行われた「御大礼武道大会」を天覧。続く昭和5年には「明治神宮体育大会」を天覧し、陸上競技、バレーボール、ホッケー、相撲、そして野球の早慶戦を観戦し、天皇自ら率先してスポーツの普及に大きく貢献した。
もちろんこれには、当時の「軍国主義政府」の企図も存在した。当時の文部省が共産主義や社会主義の「危険思想の弾圧」と「国民の思想善導」を目的とし、「体育の振興」が「国家事業として」推奨されたのだった。
もっとも、軍国主義政府の企図とは無縁に、国民が独自にスポーツの魅力に気付いたことも事実だった。それは昭和が幕を開ける前の大正デモクラシーの時代から始まり、東京六大学野球や全国中等学校野球大会(現在の高校野球)や箱根駅伝が人気を集め、大正9(1920)年のアントワープ五輪で人見絹枝が陸上800mで日本人女子初の銀メダルを獲得したことも大きな話題になった。
そして昭和5(1930)年頃には、軍国主義政府の企図とは異なり、作家の阿部知二の『日独対抗競技』や中河幹子の『ラグビーの歌』などの「スポーツ文藝(小説)」が人気を集め、年間20編以上発表される「未曾有のスポーツ小説全盛時代が訪れた」(以上・坂上康博『権力装置としてのスポーツ-帝国日本の国家戦略』講談社選書メチエを参考にしました)
戦争の拡大が進むと、ロサンゼルス五輪(昭和7年・メダル獲得数世界5位)やベルリン五輪(同11年・同7位)での熱狂とともに、軍国主義政府によるスポーツの推進が強まった。が、やがて敗戦が続き国内の戦災の広がるなかで、スポーツそのものの開催が不可能となり、昭和15(1940)年に開催が予定されていた東京オリンピックと札幌冬季五輪も(同年東京で開催予定だった万国博覧会も)返上・中止を余儀なくされたのだった。
そうして敗戦。戦後となって、日本のスポーツ界がまず手を付けたのは、戦前に開催を返上した東京オリンピックの実現だった。それも戦前の軍国主義政府が目指したような、神武天皇の即位以来の「皇紀2600年」を祝ってのオリンピックではなく、「平和の祭典としてのオリンピック」だった。
昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約の実効で、まず1960(昭和35)年の五輪開催に立候補したが、このときは同じく第二次大戦の敗戦から復興したイタリアのローマの前に敗退。しかし続く1964(昭和39)年の開催を目指し、大本命と言われていたアメリカの自動車の町デトロイトと争って招致に成功。
アジアで初のオリンピックは、かつて戦争で迷惑をかけた諸国を(すべてではないが)聖火リレーが巡回し、1945(昭和20)年8月6日の原爆投下の日に広島で生まれた若者を最終ランナーに起用し、戦後の「平和の祭典」は成功裏に実行されたのだった。
最終日の閉会式、国立球技場の広いフィールドには、多くの若い女性が手にした松明によってオリンピックの五つの輪が描かれた。その五つの火の輪が、聖火が「天に帰った(消えた)」あと、大きな一つの輪になり、各国の選手が国別ではなく全員入り乱れて入場。そのとき、「もしも世界平和というものが存在するならば、それはこのような光景のことを言うのではないでしょうか」というアナウンサーの興奮した声が、テレビで全国に響き渡ったのだった。
さらに戦後の「平和な昭和」の日本は、1970(昭和45)年に「日本万国博覧会Expo'70(通称「大阪万博)」を開催。 2年後の1972(昭和47)年には札幌冬季五輪も開催された。
こうして振り返ってみると、戦前の昭和の「戦争の時代のスポーツ」を、戦後の昭和の「平和な時代のスポーツ」へと見事に生まれ変わらせたようにも思える。が、それだけでは終わらなかった。
オリンピックの招致活動は、その後も、札幌(1984年落選)、名古屋(88年落選)、長野(98年開催)、大阪(08年落選)、東京(16年落選)、東京(20年開催)、札幌(30年落選)と、延々と続いた。
これは、戦前の「戦争の時代」のオリンピック招致を、戦後に「平和なカタチ」で復活して以来、日本のスポーツ界が招致の成功・失敗を含めて、実に全年月の約85パーセントをオリンピックと関係するなかで過ごし続けてきたことになる。そして現在は、2度目の国家規模のビッグ・イベントである万国博覧会も開催されている。
しかしオリンピックは、2030年札幌での冬季大会の招致に大失敗した。開催地としては本命視されていたにも関わらず、新たな開催意義を打ち出せず、さらに東京五輪での汚職事件が尾を引き、落選してしまったのだ。
その結果、当分の間は日本のオリンピック招致は現実的に不可能となってしまった(おそらく国家規模の万博も、3度目の開催の声は、当分上がらないだろう)。
ならば今後の日本は、オリンピックという巨大イベントと(万博という巨大なお祭りとも)関係なく発展成長し、国民が満足できる新たな「国(スポーツ)のカタチ」を考える時期に直面したと言えるに違いない。
多分それこそが、2度目の五輪が残したレガシー(遺産)であり、2度目の万博が残すレガシーと言えるだろう。
(Up&Coming '25 盛夏号掲載)