vol.29

スポーツ文化評論家 玉木 正之(たまき まさゆき)

プロフィール

1952年京都市生。東京大学教養学部中退。在籍中よりスポーツ、音楽、演劇、 映画に関する評論執筆活動を開始。小説も発表。『京都祇園遁走曲』はNHKでドラマ化。静岡文化芸術大学、石巻専修大学、日本福祉大学で客員教授、神奈川大学、立教大学大学院、筑波大学大学院で非常勤講師を務める。主著は『スポーツとは何か』『ベートーヴェンの交響曲』『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)『彼らの奇蹟-傑作スポーツ・アンソロジー』『9回裏2死満塁-素晴らしき日本野球』(新潮文庫)など。2018年9月に最新刊R・ホワイティング著『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)を翻訳出版。TBS『ひるおび!』テレビ朝日『ワイドスクランブル』BSフジ『プライム・ニュース』フジテレビ『グッディ!』NHK『ニュース深読み』など数多くのテレビ・ラジオの番組でコメンテイターも務めるほか、毎週月曜午後5-6時ネットTV『ニューズ・オプエド』のMCを務める。2020年2月末に最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)を出版。
公式ホームページは『Camerata de Tamaki(カメラータ・ディ・タマキ)

メジャーリーグの野球はAI(人工知能)による高度な情報戦(OSINT)の時代に突入。
大谷翔平選手はAIのアバター(分身)なのか?それは人の未来の「何」を示しているのか?

今年のアメリカ・メジャーリーグは、大谷翔平、山本由伸の2人の日本人選手を擁するロサンジェルス・ドジャースが、ワールドシリーズで名門ニューヨーク・ヤンキースを撃破。日本のメディアも(特にテレビが)大騒ぎのうちに幕を閉じた。

その騒ぎの結果、日本のメジャー野球ファンもさらに増えたようだが、メジャーのベースボールと日本の野球の「違い」を感じた人も多かったのではないだろうか?

メジャーと日本の野球では様々な相違点があるが、最近最も顕著に「違う」と思えるのは、メジャーの選手の多くがタブレット(コンピューター端末機)を頻繁に使うことだろう。

テレビでドジャースの試合を見たことのある人なら、大谷選手がダグアウトのベンチに座り、手にしたタブレットの画面をじっと覗き込んでいる姿を、何度も見たはずだ。

また彼が打席に立とうとするときに、相手投手が変わったりすれば、彼はベンチに引き返し、通訳やチームメイトの差し出すタブレットをベンチ前で覗き込む。そんな姿も、何度もテレビ画面に映し出された。

もちろんそのタブレットには、相手投手の特徴が示されている。速球は何%、カーヴは何%、落ちる球は何%……あるいは、初球に投げる球種とコースで最も多いのは何か(例えば内角低めの速球)……といった情報はもちろんだが、それだけなら従来のスコアラー(アメリカではスカウト=調査員・偵察員=と呼ぶ)の調べた情報と変わらない。

最近のコンピュータによる分析は、それとは異なり、あらゆる投手のあらゆる試合の映像が集積され、その「ビッグデータ」を「AI(人工知能)」が分析するようになった。その結果タブレットに表示されるのは、今マウンド上にいるピッチャーから、今打席に立つバッターがヒットを打てる確率が最も高いのは「何球目のどんな球(例えば初球の内角(外角)高目(低目)の速球(カーヴ)」といった情報が出るのだ。

もちろん打席に立つ打者が、どんな打者か(右打者か左打者か、長距離打者か単打狙いか?……など)によっても、AIが提示する情報は変わってくる。また走者の有無や、その位置によっても、球場の違いや天候によっても、AIの提示する情報(打者へのの指示)は変わってくる。

もちろん打者に向かって投球する(勝負する)投手も、あらかじめ打者の打撃の特徴(打つのに得意とするコースや球種、変化球か速球か? 早打ちか待球タイプか?……など)に関する情報(その打者を打ち取るためのAIによる分析結果)は知らされている。

代打に新しい打者が現れたりしたときは、まさか投手がマウンド上でタブレットを見ることもできず、ユニフォームの尻ポケットから紙片を取り出し、情報を確認する姿も見受けられるようになった。

つまり現在のメジャーリーグのベースボールは、コンピュータによるビッグデータの情報集積と、AIによる情報分析による高度な「情報戦」(オシント=OSINT=Open Source Intelligenc=の闘い)になっているのだ。

日米通算4367安打の大記録を残したイチロー選手は、2018年の引退記者会見の席で、次のようなコメントを口にした。

「(メジャーリーグは)頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある」

ということは、「頭(を使うこと)」はAI(人工知能)に任せ、選手はAIの指示通りに動ける体力と身体能力と技術を身に付ければ良い……ということか?

ならば全てのメジャーリーガーは、ヴァーチャル空間から指示を出す「AI(人工頭脳)のアバター(分身)」で、大谷翔平選手はAIにとって最も優秀な「アバター選手」というわけか?

しかし……人間の身体は、断じてヴァーチャルリアル(VR=仮想現実)の空間の存在でなく、あくまでもリアルな存在である。そしてメジャーリーグのベースボールも(もちろん日本の野球も)、コンピュータの画面に現れるゲーム空間のような仮想現実空間でアバターがプレイしているのではなく、現実のリアルな世界で、生身の身体を使って行われている。

その現実世界では、投手は時にボールを制御できず、AIの分析とは異なる投球をすることもある。その結果がホームランか、空振りかはわからない。が、時には投手の投球が打者を直撃する死球になることもあり、打者が大怪我をすることもあり、塁に出た選手が盗塁でスライディングをすればユニフォームは泥に塗れ……そして大谷選手がワールドシリーズで盗塁したときのように、肩の脱臼という肉体の大事故に見舞われることもある。

少々失礼な言い方になるが、大谷選手が二塁ベースに滑り込んだあと、左肩を右手で押さえて苦悶の表情を見せたとき、大丈夫かな?……と思った私は、同時に一種のカタルシス(浄化作用)のような清々しさを感じた。スポーツの凄さ、厳しさ、怖さ、迫力、そして、スポーツの素晴らしさを目の当たりにした気がしたのだ。

人間が生身の肉体を使って行うのがスポーツだ。そこを間違えてはいけない。大谷選手は、自らの肉体の限界に挑戦していたのだ。その姿は、AI(人工知能)が人間の知能を凌駕する特異点(シンギュラリティ)を突破する時代が迫っている現在と未来の、新しい人間の美しい生き方と言えるのではないだろうか。

(Up&Coming '25 新年号掲載)