vol.28

スポーツ文化評論家 玉木 正之(たまき まさゆき)

プロフィール

1952年京都市生。東京大学教養学部中退。在籍中よりスポーツ、音楽、演劇、 映画に関する評論執筆活動を開始。小説も発表。『京都祇園遁走曲』はNHKでドラマ化。静岡文化芸術大学、石巻専修大学、日本福祉大学で客員教授、神奈川大学、立教大学大学院、筑波大学大学院で非常勤講師を務める。主著は『スポーツとは何か』『ベートーヴェンの交響曲』『マーラーの交響曲』(講談社現代新書)『彼らの奇蹟-傑作スポーツ・アンソロジー』『9回裏2死満塁-素晴らしき日本野球』(新潮文庫)など。2018年9月に最新刊R・ホワイティング著『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)を翻訳出版。TBS『ひるおび!』テレビ朝日『ワイドスクランブル』BSフジ『プライム・ニュース』フジテレビ『グッディ!』NHK『ニュース深読み』など数多くのテレビ・ラジオの番組でコメンテイターも務めるほか、毎週月曜午後5-6時ネットTV『ニューズ・オプエド』のMCを務める。2020年2月末に最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)を出版。
公式ホームページは『Camerata de Tamaki(カメラータ・ディ・タマキ)

オリンピックの創始者クーベルタン男爵の目的は、スポーツと文化の力で平和な世界を創出すること。
パリ大会からテーマ曲となった『イマジン』は平和を生み出す力になれるか?

今年のパリ・オリンピックで、最も印象に残ったシーンは? と訊かれたら、あなたは何と答えますか? 女子やり投げ北口榛花選手が金メダルを決めた投擲のシーン? それとも男子体操団体が最後の鉄棒で、大逆転の金メダルに輝いたシーン? それともスケートボードで……いや、柔道で……と、様々な言葉が飛び交うに違いない。

が、日本選手の活躍したシーンだけでなく、今年のパリ・オリンピックには、オリンピックの歴史にとって、絶対に忘れてはならないシーンがあった。

それは、開会式―といっても、五輪史上初めてスタジアムを離れ、セーヌ川を船でパレードしたシーンでもなければ、河岸や橋の上でレディ・ガガやセリーヌ・ディオンが歌い、ファッションショーやダンスが披露されたことでもない。

聖火が気球の聖火台に乗せられ、空中に浮かんだことは、かなり斬新な演出だったが、私が注目したのはそれでもなく、船の上のステージで、フランスの女性歌手ジュリエット・アルマネが、ジョン・レノンの名曲『イマジン』を歌ったことに大注目させられた。

『イマジン』は、過去にも1996年のアトランタ大会でスティーヴィー・ワンダーによって歌われたのを皮切りに、2018年平昌冬季五輪、2021年東京大会、22年北京冬季大会でも歌われた。が、今回のパリ大会では歌われた意味が違った。実況中継したNHKのアナウンサーが紹介したように、『イマジン』は「今大会から開会式の一部として、毎回必ず歌われることになった」のだ。

それがどれほど「凄いこと」なのか!それは、歌詞の大意を知ればわかる。

〽みんな、想像して……天国なんて存在しない……地獄も存在しない……そして宗教も存在しない……国も存在しない……だから、殺す理由もなければ、殺される理由もない……そんな世界を想像することで、我々はみんな兄弟となって、一つになることができる……。

メロディはスローなバラードで優しく歌われるが、歌詞のラジカルさ(根源的で過激で、急進的なこと)は、誰にもわかる。だから、1991年湾岸戦争が始まったときは、イギリスの放送局BBCが放送禁止にした。また、9・11同時多発テロのあとは、アメリカ政府が各放送局に放送自粛の通達を出したのだった。

何しろアメリカンフットボールの最高峰のイベントであるスーパーボウル1試合だけで、スポーツベッティングの売上げは2兆1千億円もあり、全米のスポーツベッティングの市場規模は16兆円と言われている。

今回パリ五輪で歌われたときは、伴奏のピアノが真っ赤な炎に包まれ、それは明らかにウクライナやパレスチナでの戦火の止まない現状を表し、それに対して女性歌手が、〽国も宗教も存在せず、殺す理由も殺される理由もない……と歌いあげたのだった。

今後のオリンピックで、『イマジン』がどのように歌い継がれるのかはわからない。が、今回のパリ大会では開会式だけでなく、様々な会場でも流され、ビーチバレーではプレイ中にネット越しに口論が始まり、気まずい空気になったときに『イマジン』が流れ、選手たちは思わず微笑み(苦笑し?)、観客の間にも大合唱が湧き起こったという。

ならば今後のオリンピックで、選手たちの大合唱が起こり、ロシアの選手もベラルーシの選手もウクライナの選手も、イスラエルの選手もパレスチナの選手も、中国の選手も台湾の選手も、アメリカの選手もイランの選手も……みんな一緒になって、〽国も宗教も存在しない……そして我々は一つになる……と歌いあげる大会が生まれるかも……。

たかが歌じゃないか……とは言えない。

かつてドイツが東西に分断されていたとき、東ドイツの歌手ニナ・ハーゲンが歌った『カラーフィルムを忘れたのね』という歌は、東独の暗い実情を批判し、多くの人々を勇気づけ、ベルリンの壁崩壊のエネルギーを呼び起こしたとも言われている。そして東独出身のメルケル首相が、首相退任式で最後にこの歌の演奏を要求したのは、「歌の力」が決して小さくないことを示していると言えよう。

またソビエト連邦政府が禁止していたビートルズの歌(レコード)を、ソ連の若者たちがアンダーグランドで買い求め、西側のロック音楽が広がり、ソ連邦の崩壊とバルト三国の独立にも大きな力を発揮したと言われている。

さらにロック歌手ルー・リードとベルベット・アンダーグラウンドというグループの音楽が、チェコのビロード革命を導いたことや、テレサ・テンの歌った『月が私の心を映してる』という歌が、北京の天安門事件や香港の民主化運動にも影響を及ぼしていたこと、そして古くは、ジャズ歌手のビリー・ホリディが歌った『奇妙な果実』(リンチで木にぶら下げられた黒人を表現した歌)が、アメリカでの黒人解放運動のうねりを引き起こしたこと……などなど。

「歌の力」はけっして小さくないのだ。

パリ・オリンピックの閉会式でIOC(国際オリンピック委員会)のトマス・バッハ会長はこう言った。

「オリンピックが平和を創ることができないのはわかっている。しかし五輪は平和の文化を創り、世界に影響を与えることはできる」

オリンピックを創出したクーベルタン男爵は、スポーツで平和な世界を創出することを企図した。さらに芸術文化も取り入れた大会として発展させた(パリ大会でも数多くの芸術文化プログラムが実行された)。

過度な商業主義で「ボッタクリ男爵」とも非難されたバッハ会長の言葉は「言い訳がましい弁明」にも聞こえるが、「スポーツの力」と「歌(イマジン)の力」が融合すれば、「政治の力」ではできない奇蹟(平和)が、いつか出現するかも……?

(Up&Coming '24 秋の号掲載)