今年正月に発生した能登半島地震の衝撃は日本列島隅々に走ったが、列島の反対側にある房総半島は対岸の火事ではおさまらない共通する難題が浮かび上がってきているといえよう(日本地図を逆さにしてみると、能登と房総はまさに列島の対極にあることが看て取れる)。
この稿では河川というよりも房総半島の海岸線に沿ってここ数百年に起こった地震(元禄地震〔1703年〕、大正関東大震災〔1923年〕、そして平成の東日本大震災〔2011年〕)についてふれてみたい。
野島埼灯台
房総半島の南端、南房総市白浜に在る野島埼灯台は江戸時代末期に英米蘭仏4か国と結んだ条約に基づき国内で最初に建設された8箇所の灯台の一つで、仏技術者の指導で1869年(明治2年)に点灯した。その後関東大震災で倒壊したが、その後再建されて現在に至っている。なお灯台が建つ野島崎は元々島であったが、元禄地震で地盤が隆起し陸続きになったと言われている。関東大震災で更に1メートル余り隆起した。
初代の野島埼灯台
現在の野島埼灯台
野島崎の大正関東大震災前後の風景
下の2枚の絵のうち、上側の絵は大正関東大震災の約半年前に当地をたまたま訪れた東京大学地質学科の石﨑順吾氏が描いたもので、下側の絵は、震災後の翌年1月に同氏が当地を再訪し、同位置から描いたもの。(東京大学総合研究博物館所蔵)
震災後に描いた絵には(当然のこととして)野島埼灯台の姿が無い。また前面の海が陸地化していることにも気付かされる。
野島崎の関東大震災前後の絵(上:震災前、下:震災後)
野島崎に隣接する乙浜漁港では?
野島崎から東に約4キロメートルの距離にある乙浜漁港では大正関東大震災による地盤隆起で港内の泊地、航路に漁船が出入りできなくなり、浚渫工事などの災害復旧を余儀なくされた事例も生じている。右の写真は当時の工事中の写真、昭和7年又は8年撮影と推測(大滝工務店提供)。
なお乙浜漁港については、元禄地震で、隆起した海側の岩礁が格好の防波堤になり、避難港として整備されてきたという歴史も持っている。
関東大震災で隆起した乙浜漁港の浚渫工事写真(大滝工務店提供)
野島崎周辺の航空写真「千葉県の自然誌本編」
船形漁港旧防波堤―大正関東大震災の生き証人(震災遺構)
東京湾入口にある館山湾の北側に位置する館山市船形漁港はカツオなどの生餌供給基地として近世から栄えており、安政の1860年代には鋸山で産出される房州石を使って防波堤を建設するなどして港づくりが始まっている。
大正関東大震災で当地域は約1.5メートルの地盤隆起が生じ、そのため当初の防波堤は用をなさなくなったが、災害復旧工事で泊地や航路を浚渫し、突堤を建設して本格的な漁港づくりが再開された。
このように房総半島南部には、元禄、大正と約200年の間に2度発生した大地震で地盤が大きく隆起したが、その痕跡を示す岩層が館山湾南側の西崎海岸の波打ち際に横たわっているおり身近に観察できる。
館山市西崎海岸にある元禄、大正関東地震による地盤の隆起を示す岩層
2011年東日本大震災で液状化被害を受けた浦安市(2011年3月14日撮影)
<主な参考資料・画像出典>
千葉県中央博物館資料
「千葉県の災害改良復旧事業」(千葉県河川課)
(Up&Coming '24 盛夏号掲載)